生と死

自律神経失調症は、身体に異変があらわれます。同時にうつでもあります。私の場合、自律神経失調症がメインで、うつ症状も若干あります。(医師曰く「結構ある」そうですが…)身体の調子が悪いと、気持ちだって余計に沈んでしまいます。天気が良い日に具合が悪く、寝込んでいると「せっかく天気がいいのに、私は布団の中で何をしているんだろう…」と悲しい気分になってしまいます。どんどん気分が沈んでくると、考えるのは「死」についてです。

「死にたい」わけじゃない

死について考える「死」について考えるといっても、決して「死にたい」と思うわけではないのです。「死んだらどうなるのかなぁ…」程度です。誰だってきっと考えたことはあるのではないでしょうか?たとえば、頑張って頑張って働いて生きてきて、ふと「何のために生きているのだろうか?」や「死んだら楽になるのかな?」とか…ありませんか?休職して休んでいるといっても、こういうことは考えます。「周りは動いて生活しているのに、自分は何をやっているんだろうか。生きている意味や価値はあるのだろうか…?」と。

そんな時、死んだらどうなるかを考えてしまいます。動き回らないわけですから、思考のみしてしまうのです。でも、決して「死にたい」という積極的な考えではないことに気づきました。

行動に移さない理由

なぜ、私は「どうなるんだろう?」と考えるだけで実際に行動に出ないのか、理由がいくつかあります。

痛そう・苦しそう

まず、これを考えます。「生きている」から「死ぬ」の間にはどうしても苦しい・痛みなどのイメージがあります。私は注射も嫌いなくらい痛みが嫌いですし、痛みに弱いです。痛いのをガマンしてまで「死」を選べません。痛いのや苦しいのはイヤなんです。

死んだら楽になるのか?

生物が死んだ先に何があるのか、なんて生きている間にわかりません。「死んだら無になる」「死んだらあの世に行く」と言う人もいます。でも、両方とも絶対ではないですよね。どうなるのかなんて、生きている間にわからないってことです。もし無になったら身体の苦しさから逃れられるかもしれません。でも、無じゃなかったら?辛い感情だけ残ったら?楽になる保障なんてないことにチャレンジできません。

自然の一部でありたい

時々、私は気分転換に山など自然を感じることができる場所に行きます。そういうところでぼんやりしていると「自分も一応この地球上の生物なんだなぁ」と認識できます。小さいな、とも思いますが「小さな存在」=「悩みも小さい」とは思いませんよ。

私は、人間以外の生物は、自分から死を選ぶことってないと思っています。「死」の概念はあるかもしれないけど、あえて死を選ぶことはなく、その時を生きているはずです。人間だけが自殺する生き物なのではないでしょうか。

そう思うと、自殺するってことは自然の流れからはみ出してしまうことなんじゃないかって思ったのです。今、私は自分の中で人としての枠からなんだかはみ出しているような気になっています。働けず、いまいち動けず、ただぼんやりと一日を過ごすことが不安でなりません。世間からはみ出しているような気分になっています。「社会 ( 人 ) 」からはみ出しているように感じる上に、自殺したらもっと大きな「自然」という枠からもはみ出してしまうのではないか、と思ってしまうのです。何もかもからはみ出してしまうのかも…そう考えてしまうのです。せめて、自然の一部の「生物」でありたいと考えてしまいます。

面倒くさい

このようにもっともらしいことをウダウダと書いていますが、何よりも行動に移すのが面倒なのです。たとえば「死のう」と考えても、そのための道具や場所が必要になります。購入するなり、移動するなりと何らかの行動が必要です。…実はそういう行動をとることすら「面倒だ」「身体がダルい」と考えてしまうのです。そして、そんな気力や元気がないことに気づいて、余計にショックを受けるのです。

回復期のうつの方が自殺は多いらしい

自律神経失調症や「うつ」は、薬などで徐々によくなっていきますが、回復期というものに入った方が自殺率は高いようです。おそらく、一番辛い時期は私が書いたように「死ぬ行動すら面倒くさい、疲れる」と考えるためではないかと思います。回復期になると、ある程度行動も積極的になります。でも「うつ」の症状が出ると、行動はできるので、準備して実行してしまうのではないでしょうか。

身体と心の回復度合いが違うのかもしれません。

 

2007/10/14